定年後、誰にも相手にされない孤独な老人になる予定のあなたへ
定年後、妻や家族から敬遠され孤独に陥った方の相談記事を読みました。
鴻上さんの愛に溢れた鋭い文章に心動かされたのですが、これを読んで思い出したことがあったので書きます。
妻からの「今更何よ」に戸惑う夫
小6の時、1994年に学校で配布された冊子に似たようなケースを描いた漫画がありました。
もうすぐ定年を迎える会社員が部下と飲みながら
「家族のために一生懸命仕事してきた。ようやくのんびりできると思って妻に「これからは一緒にのんびりしような」と言ったら「今更何よ」と鼻で笑われた。何で「今更何よ」なんだ?俺は何か間違ってたのか?」
と愚痴るシーンが子どもながらに強く印象に残りました。
あれは何の冊子だったんだろう。
男女雇用機会均等法とか、その辺の話だったのかな。
四半世紀前に既に発生していて、当時働き盛りだった世代にとっては「予言」だったことが、この相談者に起こっていることです。
今でも有効な「定年後の予言」
現在36歳で働き盛りの自分と同世代の男性にとっては「家族をないがしろにしていると四半世紀後(もしかするともっと早く)にこうなりますよ」という「予言」です。
「男は仕事、女は家庭」というあり方が、一様に否定されるべきではありません。
それでうまくいく家庭もあるでしょうし、そういう時代もあったのかもしれません。
ただ、それを信じて頑張ってきた帰結としてこのような状態になることは、それほどイレギュラーではなく「そこかしこで起こっている、これからも起こる」ことです。
事実、熟年離婚は増加しています。
予言とは何のためのものか
「予言」繋がりで「ノストラダムスの大予言」というものがありました。
「1999年7の月に人類は滅亡する」というものです。
世代でない方にとっては「そんなアホな」と思われるかもしれませんが、当時は割とリアルに信じられていた予言です。
「ノストラダムスの予言の書を読み解くと湾岸戦争やダイアナ妃の事故死も予言されていた!」みたいな特集がテレビや雑誌でちょくちょく組まれ、専門家を名乗る人がたくさんいました。
結果人類は滅亡しなかったので、予言は当たらなかったということになります。
では意味がなかったか、というとそうでもなかった気がします。
当時多くの人たちが「本当に人類が滅亡するとしたら自分はどう生きるべきか」を考えたと思います。
メメント・モリ(死を思え)という言葉がありますが、死を思うことは「どう生きるか」を考えることでもあります。
「君たちはどう生きるか」という本が再ヒットしたのも記憶に新しいですね。
予言には、日常の忙しさに追われて考える機会のない大切な問いを思い起こさせてくれる機能があります。
「あなたは孤独な老人になるでしょう」という予言
予言というものの機能を踏まえると「あなたは孤独な老人になるでしょう」という予言は 「あなたは(そうならないために)どう生きるか」 という問いかけになります。
特に既婚で会社員の男性にとって有用な問いです。
昭和に生まれた「男は仕事」という価値観は、力を弱めつつも支配的影響力を強く持ったまま平成を生き延び、令和の世でも未だ健在です。
もう少し言うと「男は仕事(だけしていれば良い)」から平成の世を経て
「男は仕事(を今まで通り担いつつ家庭にもリソース割くべし。ちなみに終身雇用とかはもう無理なのでよろしく。残業代出したくないから早く帰って!でも生産性高めて成果はむしろ今まで以上に出してくれるかな?)」
に変化してきたんですよね。
制度も風土も整備が追いついてないのに「いいとも〜」って元気よく言うことを求められてる。
そら「男がつらいよ」ってなりますわ。
ちなみに「女は家庭(のことだけやってれば良い)」は
「女は家庭(を今まで通り守りつつ、仕事ともうまいこと両立して管理職目指してね。あと保育園足りないけど子どもは3人以上産んでくれるかな?)」
に変化し、同様に「いいとも〜」を求められてます。
タモさんに言われてもいいともできないレベルの無理ゲーです。
定年後、誰にも相手にされない孤独な老人になる予定のあなたへ
「予言」を受けて「やべぇ」と気づいたあなたは、是非今日から行動を変えましょう。
小さくてもいいし、何でもいいし、失敗したっていいです。
未来を変える意志を行動で示すことが重要です。
失敗しても諦めず、変革の意志を持ち続けて、行動し続けてください。
こんなこと書いてる私も他人事ではない、予言を受けた当事者の一人です。
一緒に頑張りましょう。
最後に一言。
「未来を明るくするための行動を、してくれるかな?」